• 政治家信仰のカルト化と民主主義への脅威

政治家信仰のカルト化と民主主義への脅威

2025.07.16

目次

主観が事実を歪めるとき

  • 強い信仰が、見えないものを見せ、聞こえない声を聴かせる。街頭演説の動画を見て、僕は自分の耳を疑った。NHK党党首・立花孝志氏がプラカードを持つ女性に向かって激高し、「お前、殺すぞ!」と怒鳴っていたからだ。ところが、その後SNSを覗くと、一部の立花氏支持者たちは「『殺すぞ』なんて言っていない。『うるさいわ』と聞こえた」と主張していたのである。
  • 女性は声を発しておらず「うるさい」と言われる筋合いはなかったし、「ころすぞ」と「うるさいわ」では音の数もイントネーションもまるで違う。それでも彼らは「自分にはそう聞こえた」と言って譲らない。その様子は、客観的な音声という証拠がありながらも、主観的な「聞こえ方」ひとつで現実の事実をねじ曲げて否定してしまうかのようだった。
  • 常識的には考えられないこの光景に、「政治家の信仰者」現象の恐ろしさを感じずにはいられない。

占い的な“主観の勝利”と反証不能性

  • 他人にはどう聞こえようと、「自分にはこう聞こえたのだから真実だ」と信じ込む。この構造はまるで占いにハマる心理に似ている。心理学でいう「主観的承認」というバイアスが働いているのかもしれない。主観的承認とは、自分の信念や経験と合致しているだけでその発言や予言を真実だと信じてしまう傾向のことだ。
  • 例えば星座占いで自分の性格に当てはまる部分があると、それだけで「当たっている!」と感じてしまうようなものだ。要するに「信じたいことが真実になる」というわけだ。立花氏の発言をめぐる支持者たちの反応もこれと同じ匂いがする。
  • たとえ録音を客観的に再生すれば「殺すぞ」と言っているのが明白でも、「自分には『うるさいわ』と聞こえたんだから、それが真実だ」と主張するわけである。第三者から見れば、それは反証不能な主観の押しつけに過ぎない。本人の中では「そう聞こえた」という主観的体験が絶対なので、いくら客観的証拠を示されても「自分には違う風に感じた」と言い張れてしまう。
  • まさに占いの「当たるも八卦当たらぬも八卦」よろしく、どんな結果でも自分に都合よく解釈してしまう構造だ。こうした“主観の勝利”状態では、もはや事実検証も議論も成り立たない。

覚醒体験と敵視:宗教的カルトと酷似するプロセス

  • 事実よりも主観を優先するこの姿勢は、宗教の信者獲得プロセスとも酷似しているように思う。カルト宗教を含む多くの宗教では、信者が生まれるまでにいくつか共通した段階がある。それは啓示(特別な真実を知る)、覚醒体験(劇的な気づきを得る)、そして敵/外部の者の存在(自分たちを阻む邪悪な存在の設定)である。
  • 政治家を熱狂的に信奉する人々にも、これらの段階が見て取れる。まず、彼らはしばしば「この人だけが本当のことを教えてくれた」と語る。立花氏の支持者であれば、「NHKの闇を暴いてくれた」「既存メディアが報じない真実を教えてくれた」といった具合だ。いわば啓示を受け取った感覚で、その政治家を特別視する。
  • 次に訪れるのが覚醒体験だ。それまでモヤモヤとしていた不満や閉塞感に対し、「そうか、悪いのはあいつ(NHKや既存政党)だったんだ!」と腑に落ちる瞬間が来る。心が震え視界が開けたようなその体験は、宗教でいう「救われた」「悟りを得た」瞬間にも重なる。
  • 事実、カルトの信者たちは「自分は選ばれて特別な真実に目覚めたのだ」と感じることが多いと言われる。カルトでは「自分たちだけが特別な真実や覚醒を得ている」「外部の人間には理解できない」という排他的な世界観が強調され、信者は自分たちを“選ばれた存在”と認識するようになる。これによって集団内の忠誠心や一体感が一層強まっていくのだ。
  • 最後にやってくるのが敵視の構造である。宗教でも「悪魔」や「異教徒」が設定されるように、カルト的な集団にはわかりやすい敵役が必要だ。立花氏の運動において敵役となるのは、たとえばNHKや彼に批判的なメディア、時には選挙で対立する他陣営だろう。
  • 信者化した支持者にとって、自分たちの「啓示」を理解せず批判してくる外部の人間こそが邪悪で愚かな存在に見える。こうして「立花孝志を批判する奴は許せない」「あいつらは民主主義の敵だ」といった具合に、外部への攻撃や排斥が正当化されていく。
  • 実際、立花氏とその支持者たちの集団行動は過激さを増し、批判者への嫌がらせや訴訟を繰り返す様子が報じられている。日刊ゲンダイは彼らの党を「反社会的カルト集団」とまで呼び、メディア記者をネットで晒し上げ支持者が一斉攻撃する構図を指摘した。まさにカルト宗教さながらの「敵」と「聖戦」の構図が、政治の場で再現されているように映る。

“神秘体験”としての政治参加と自己啓発セミナーの類似

  • 宗教的なカルトだけではない。人が主観的な“悟り”を得て熱狂する現象は、自己啓発セミナーやスピリチュアルなワークショップなど世俗の場でも起こりうる。たとえば、大規模自己啓発セミナー(LGAT)の中には、参加者に劇的な心理体験を与えることで有名なものがある。
  • 暗闇の中で自分の弱さをさらけ出し、大声で泣いたり笑ったりするうちに、「自分は生まれ変わった」「人生が変わる気づきを得た」と感じる参加者もいるという。その高揚感は、一種の神秘体験にも近い。
  • 宗教学者レイチェル・ストームは、こうした自己啓発セミナーについて「セールスマン的な積極思考とスピリチュアリティ(精神性)を融合させ、東洋の神秘思想まで取り込んだ自己宗教だ」と評している。参加者の動機は「空しさ」など内面的な渇望であり、新興宗教への入信動機と重なる部分があるとも指摘されている。
  • 要するに、人は宗教であれ自己啓発であれ、「満たされない何か」を埋めてくれる存在に出会ったとき、主観の中で劇的な変化を体験し、それが真実の啓示だと感じてしまうのだ。
  • 立花氏を熱烈に支持する人々にも、これと同様の“主観的神秘体験”が起きているのではないか。彼らにとって立花孝志という存在は、単なる政治家ではなく、自分の人生を変えるきっかけを与えてくれた救世主なのだろう。
  • だからこそ、たとえ彼が暴言を吐こうと問題行動を起こそうと、「あの人がそんなことを言うはずがない、自分には違う意味に聞こえる」と現実より信仰を優先してしまう。それはまるで自己啓発セミナーの参加者が得た感動体験を命がけで守ろうとする姿にも重なるし、宗教の信者が教祖の矛盾を見て見ぬふりをする姿にも重なって見える。

「信仰」と「検証」を分離せよ

  • 僕たちは今、民主主義の根幹にかかわる問題に直面しているのかもしれない。政治に熱心であること自体は悪いことではないし、信条として特定の政治家を支持するのも個人の自由だ。
  • しかし、それが「信仰」の域に達してしまったとき、民主主義社会の前提は崩れ始める。民主主義は本来、事実に基づく議論と相互の妥協によって成り立つものだ。ところが信者化した人々は、最初から自分たちの主観的真実だけを拠り所にしてしまうため、客観的な検証や対話が成り立たなくなる。
  • 「殺すぞ」が「うるさいわ」に聞こえる——この衝撃的な現象は、単なる聞き間違いでは片付けられない。そこには、自分の信じたいものだけを真実とみなすという態度、つまり民主主義とは相容れない発想が潜んでいる。
  • 民主主義社会を健全に保つためには、僕たちは「信仰」と「検証」の領域をしっかり分けて考えなくてはならない。どれだけ心酔する政治家がいても、事実関係の検証から逃げず、都合の悪い現実にも目を向ける姿勢を忘れてはいけないのだ。
  • かつての全体主義やカルト宗教の歴史を振り返れば、強い信仰が人々の目と耳を奪い、社会を誤った方向へ導いた例は枚挙にいとまがない。だからこそ僕たちは、政治に情熱を注ぐときほど冷静さを保ち、「見たいものだけを見る」誘惑に抗う必要があるだろう。

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