祖母は差別主義者で権威主義
2025.07.02
目次
祖母のではなく、社会の問題かもしれない
僕の祖母は93歳。とんでもなく差別主義者だと思う。
同時に、権威主義的で内弁慶。外にはへりくだり、身内には強く出る。
けれどそれは、祖母だけの問題ではない。
むしろ、そういう日本人を良しとする価値観が、長いあいだ日本社会をつくってきたのではないか。
そしてそれが、多くの社会問題の見えにくい原因として今なお残っているのではないか。
戦後の「新しい民主主義」は、どこまで浸透したのか
戦後日本は、建前としては民主化・平等・教育改革を成し遂げたことになっている。だが、家制度・儒教的な上下観・“空気”による統制は、目に見えない形で存続し続けている。
昭和の家庭では「親の言うことは絶対」だったし、学校では「先生に逆らうな」と教えられた。政治的関心は「お上」に任せ、社会の問題は“口を出すべきでない”ものとされた。その空気の中で育った世代が持つ価値観が、無自覚に次の世代に継承されている。
差別は個人の感情ではなく「教育された常識」だった
祖母が特定の国や地域の人を悪く言うたび、僕は居心地の悪さを感じる。でも、それは“悪意”というより、“当然の前提”として言っているように見える。なぜなら彼女の世代にとって、差別や偏見は「普通の会話」だったからだ。学校、新聞、役所、テレビ番組…すべてが“そういう空気”でできていた。つまり、差別は個人の問題というより、「構造の産物」だった。
今も続く“空気の正義”と、アップデートされない倫理
いまでも、差別的な表現がテレビやSNSに登場すると、「昔は普通だった」「悪意はない」と擁護される。そのたびに、「なぜそれが問題なのか」を一から説明しなければならない。つまり、戦後の倫理は十分にアップデートされていない。
さらに悪いことに、それを指摘する人たちは「うるさい」「意識高い」と煙たがられる空気さえある。こうした“空気の正義”が、差別を温存し、政治的な無関心を促してきたのではないか。
政治と広告が“空気”に依存する理由
これは「誘導されやすい社会構造」だ。広告は「空気」をつくる。そして政治広告もまた、「こういう考えが普通」「この人は信用できない」といった印象操作に依存している。これは、戦前の“プロパガンダ型メディア”と本質的には変わっていない。
権威を疑わない空気、偏見を“常識”としてしまう空気、その両方がまだ社会に残っている。
そして、政治的無関心はその空気を温存しつづける。
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